読み手「やまだ眸月真」のつぶやき

長崎風頭

第2話 道富丈吉

思案橋電停から、寺町通りをぶらぶらと歩いて10分位でしょうか。長崎のハタ揚げで有名な山、風(かぜ)の頭(あまた)とかいて、風頭(かざがしら)。
この風頭の登り口にあります。シーボ ルトの娘イネ、幕末の砲術家高島秋帆や海援隊近藤長次郎など、著名な人々のお墓もここにあります。いく層にも歴史が積み重なったお寺の境内。この境内に併設された幼稚園の園児たちの遊ぶ声が響いています。幼い頃の思い出をくすぐるように、その声が響いてきます。

つぶやき★ついで
こいのぼり

皓台寺の裏山をのぼり丈吉さんのお墓を探しました。
朗読の中の文の通りに進み「民家のある所から左におれて」とあるのでその民家を目指して石段をどんどん登っていきました。
見渡す限りお墓です。
随分、登っても民家は見当たらず。
見上げれば石段はまだまだ続くのですが私は無遠慮にお邪魔してしまったような感覚がよぎり、引き返すことにしました。
家へ戻り、皓台寺さんのホームページを見るとさほど、上の方でもない位置に丈吉さんのお墓はあるようでした。そして改めて、あの時感じた「無遠慮にお邪魔してしまった」感覚について思うのです。故永島正一さんが一万回語った、長崎ものしり手帳。その中に登場する本当に、この長崎で生きた先人達。

ドーフさんの思い、瓜生野さんの思い、丈吉さんの思い。
丈吉さんを役人に取り立てた人の思い。
丈吉さんが亡くなった後にドーフさんから届いた手紙を手にした人の思い。
その感情のどれも味わったことがないので思いやることで、思いを馳せることで無遠慮さは取れるのだろうか?
その答えはしばらくは出ないのでしょうが、日々の暮らしを丁寧に、生きることでいつか答えに出会うのでしょうか。

摂するという言葉の意味を昨日知りました。
この摂という漢字は本来、手へんに耳を3つ書くそうで。三つの耳に手を当ててよく聞くということだそうです。
三つの耳とは?心と身体と魂の耳でしょうか。
今の私にはとっても必要な作業だからでしょうか。
このお話を聞いた時、胸の辺りがホカホカと温かくなりました。
写真は皓台寺の幼稚園の園庭に泳いでいた、こいのぼりです。
ん?風止んで、泳いでないですね。
ドーフさんの時代、出島のオダンダ国旗の下に丈吉さんの誕生を祝って、こいのぼりも泳いでいたかしら?
そんなことを思いながら撮った一枚です。

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